エッセイ「音楽の価値は」(後編)

昼公演終了後、私はMさんに食ってかかりました。


「何だよこれ最低じゃねーか。よくこんなのでファン続けてられるな!」


ところがMさんは・・・怒るどころか、私を哀れむような目で見てます。
周りを見ればかつてのヲタモダチの皆さんも悲しそうに私を見てます。
これはいったいどういうことだ?

(ここから後編)

Mさん「tubよ、あんたあややの記者会見見なかったのか?テレビでもやってただろ?」
tub 「いや、テレビなんてほとんど見ないしもうハロプロとは縁を切ってるから・・・」
Mさん「じゃあ知らないのか・・・実はな、あややは喉をガンに冒されてるんだよ。」
tub 「えっ!だって・・・まだそんな歳じゃないだろう!」
Mさん「それを3ヶ月前ぐらいかな?記者会見を開いて告白したんだ。
      本当はきっぱり引退して療養すれば命に別状はないらしい。だけどあややは・・・」


あやや『歌えないなんてそんなの私じゃない!それじゃもう死んでるのと同じです。
     私は命尽きるまで歌い続けます。歌うことが私の全てです。
     たとえステージの上で死んだって絶対に後悔なんかしない!』


tub 「そんな・・・バカな!」
Mさんあややはそう言って周りの制止を振り切ってそれでも歌うことを選んだんだ。
    だから今やってるステージはまさに命がけなんだよ。
    最後の力を振り絞ってオレたちに向かって歌い続けてるんだよ!なあわかるだろ?」
tub 「なんてこった。知らなかった・・・あやや・・・君は・・・」


そして夜の部が始まりました。
疲労のせいか、昼の部よりもさらに声は出てなくてもうひどい有様でした。
でも、そんな状況でも私は心から応援せずにいられませんでした、
彼女は命を削りながら歌を届けようとしている。それに応えずしてどうする!
私は隣のMさんといっしょに必死であややコールを続けました。泣きながら。


プログラムを終えて最後のMC、あややはもう限界ギリギリという様子でしたが
それでも微笑を浮かべながら、かすれた声でこう言いました。


『今日はとっても楽しかった。
 またいつか大阪でライブをやる時は皆さんもぜひ来てくださいね!』


でももしかしたら「また」は二度とないかもしれない。いやおそらくは・・・。
そう思うと、私は頬を滝のように流れる涙をぬぐうことなどできませんでした。
そしてアンコールで「ホントのホントに最後の曲」として彼女が歌ったのは
かつてのシングル曲「笑顔」でした。


「♪生きてさえいれば 何かが生まれる
  生きてさえいれば 報われる
  だから負けないで ひとりじゃないから」


私にはもう天上の音楽のようにも聴こえました。
声はほとんど出てなかったけど、これこそが魂のこもった「真の音楽」なのだと。


さてさて、ここで問題です。

「音楽」とは音を素材とする芸術、表現手段のひとつであって、
本来は出てくる音をもって楽しんだり評価したりするものであるはずです。
上の話だと、あややの音楽は評価するにすらあたらない、まったくもって
低レベルの音楽であり、本人の体調とか関係ない話です。


私は昼公演後にMさんから彼女の病気のことを聞きました、
でも音楽を聴くうえでそういうバックボーン、情報を知る必要があるのか?
またそれを知ってる、知らないで音楽の評価が変わるというのはいかがなものか?
それに左右されてしまうというのは変ではないか?
いや、そういうことを知って(勉強して)からこそ、その音楽を聴くべきなのか?
そこまで勉強しないと正しい判断ができないのだろうか?



仮にもしそうだとすると、さらに話はややこしいことになってきます。
もしMさんが私に告げた話が実は大ウソだったとしたら??
いや、そんな記者会見があったのはホントだったとしても
あややの病気という情報そのものが嘘だったとしたら?
明らかに年齢以上に衰えたあややをなんとか売り出すために
事務所側が業界や世間をだまそうとしているのだとしたら?



もしそうなら、私が流した涙の意味とは一体なんだったのか???
真実はどこにあるのか???


音楽の評価とか価値ってそのぐらいいい加減なものかもしれない、って話です。
ここのコード進行が秀逸だ、みたいなある程度客観的な評価はできても
その音楽がすばらしいものなのかくだらないものなのか、なんてことは
まさに人それぞれだし、さらに個人の中でも大きく評価が変わりうる。
結局のところ「いい音楽」「いい曲」なんてものは
しょせん個人個人の幻想、幻影、妄想にしかすぎない
・・・のかもしれません。

P.S.

ということで最後までお付き合いいただきありがとうございました。
あややを病気扱いしたことに全く他意はありません。
気を悪くされた方には誠にゴメンナサイ、です。